特集「鶴ヶ島の教育改革」
    −市民の参加・学習・協同―を読んで

 「さいたまの教育と文化」41号を編集委員会の責任者・岩崎さんから見せていただき、"鶴ヶ島"という 地名を目にして懐かしくなり、記事を読みました。  鶴ヶ島は私たち家族が二十数年前に5年間住んでいたところです。時代は学齢期の子どもたちの急増期で、 高校がなかった鶴ヶ島は高校を誘致しようという市民の要望がありました。私たち数人の市民が中心となり、 対町交渉、対県交渉をやってきました。当時は町役場ですが、そこまで遠くて自転車で往復1時間かけてよく いったものです。「地元に高校を、15の春を泣かせないで。」という呼びかけで、署名を集めて議会にもっ ていったりして、やっと設立される運びになり喜んだものです。  それと前後して、教育問題を語り合う会合を教師、父母、勤労者たちで持ちました。話し合われた要望を 行政に持っていったりして、公民館運動などになったと思います。このように、当時から教師と父母と一般 市民である勤労者はそれぞれの立場で1つの問題を話し合っていました。私は子どもが小学生の低学年でした ので、父母として参加していました。  夏休みには隣町の坂戸の先生方とともに、夏休み教室のような催しをしました。キャンプをしながら、先生 と親が教師役になっていろいろな講座をするのです。食事つくりや洗濯も学習内容の1つで、火起こし体験、 竹細工、算数、数学、星座観察、昆虫・植物採集など、私の記憶では理科的なものが多かったように思います。 子ども2人連れて参加し、教師役もしました。  しかし、母が病気になり、私が面倒を見なければならず、東京に引っ越しました。その後、鶴ヶ島のことは 風の便りで、鶴高がよくない、ということを聞きました。内心忸怩たるものがありましたが、それも自分の 生活でいっぱいで、月日の経過とともに忘れ去っていました。今回、思いがけなく、鶴ヶ島高校が素晴らしい 学校になっていたことを知って、うれしいという思いと、少し後ろめたい気持ちがありましたが、心底皆様の 努力に敬服しました。市民の皆様は心から子どもを大切にする気持ちがあり、それを口だけでなく実践して いく力を持っていらっしゃる事が記事からわかりました。20年以上前からいろいろな立場の人たちが一緒に なって力を合わせていくという伝統が、ここにさらに主体である子どもたちを中心にしていくということで、 発展しているのだと思うのです。  私がこのような、昔の思い出みたいな、あやふやな記憶を根拠に感想を述べるのは失礼かとも思いましたが、 私自身の胸の痞えが下りたような気持ちですので、そのことに対する皆様への感謝とお取りください。